学院長 『宮っ子』 甲陽園版7・8月号に寄稿

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学院長 『宮っ子』 甲陽園版7・8月号に寄稿

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2018/07/03 学院長 『宮っ子』 甲陽園版7・8月号に寄稿

 

 

 

 

 

  小学6年の時に大阪城のプラモデルを作ったことがありました。

その付録の大阪城解説書に、豊臣時代の大阪城の遺構はすべて地

中に埋もれている、現在の石垣は徳川が力を誇示するために10メ

ーター近い盛り土をして、その上に新たに石垣を築造したものであ

る、ということが記されていました。そのことが判明し始めて間も

なく正式な発掘調査もなされていない時期でしたので、この事実は

まだほとんど知られておらず、歴史教科書にも反映されていないこ

とでした。 

 中学2年の社会の歴史授業の時に、先生が大阪城について、写真を

参照しながら、豊臣秀吉の大阪城云々、という説明をされたので、私

は「最近の発掘調査で、現在の大阪城は石垣も含めて徳川の江戸時代

以降のものであることが判明した」、と先生の誤った説明を訂正した、

というエピソードがあります。

 あれから40年以上。『宮っ子』編集委員のお手伝いを昨年よりさせ

ていただいていますが、2017年秋、徳川時代の大阪城築造に使われた

石垣の切り出し・加工のこの東六甲石丁場が、新たに国の史跡に指定さ

れたことについて、めぐりめぐって、記事の執筆を依頼される、という

奇遇なご縁をいただいて、一筆執らせていただきました。

 

 

 

 本年2月13日、甲山町の「徳川大坂城東六甲採石場・甲山刻印群」の一部が「大坂城石垣石丁場跡 東六甲石丁場跡」として新たに国史跡に指定されました。

 大坂城の石切場としてすでに知られていた小豆島は1972年、大坂城石垣石切丁場跡としていち早く国史跡に指定されていました。今回、東六甲石丁場跡への市教育委員会の長年にわたる実地調査、航空機を使ったレーザー照射による綿密な地形調査、県教育委員会の研究調査によって、徳川大坂城再建時の、京都から九州にまたがる採石場の中でも、最大規模であること、その遺構がよく保存されていることが認められ、甲山森林公園内の6万4千平方メートルの石丁場(工事現場)が大坂城石垣石丁場跡として追加指定されたのです。

 皆さんは大阪城といえば豊臣秀吉を思い浮かべるでしょう。しかし昭和6年に鉄骨鉄筋コンクリート工法で再建された大阪城の天守閣の土台の石垣の全ては徳川時代に新たに組み上げられたものであり、あの瀬戸内の島から運ばれた130トンもの巨大な蛸石も徳川の命に従った外様大名の手によるものなのです。徳川幕府は、豊臣側についた外様大名の勢力を弱めるため、公儀普請(公共事業)と称して1620年から29年にかけて大坂城をすべて破却し、秀吉が築いた石垣に1~10メートルもの盛り土をしたその上にさらに石垣を構築して徳川大坂城を新たに造営しました。調査によれば実に、現在の「徳川大坂城」の石垣の3分の1はが東六甲石丁場から切り出されたものだそうです。

 六甲山は古くから良質の花こう岩を有する山として知られ、山頂尾根から山麓にかけて古くは磐座として古代祭祀に使われていたものと推定される巨石文明の跡も数多く残っており、越木岩神社は磐座をご神体とするお社として、今もなお信仰されています。古墳時代には豪族の墳墓の石材としても利用され、飛鳥時代には四天王寺創建の際に石材が神戸の御影から切り出されました。花こう岩を御影石と呼ぶのは、神戸市東灘区の御影から良質な花崗岩が採掘されたことに由来するものです。

 甲山森林公園に残る石丁場は仏性が原の地名が伝わり、かつて神呪寺の境内のあった場所ともいわれています。その石丁場で石切、石の加工をしていたのが佐賀藩鍋島氏と推定されており、鍋島藩の刻印石も多く残っています。この石丁場跡は鍋島氏の砕石技術や石切、山出しの過程、運搬技術、労働力の編成のさらなる解明にもつながるものです。西宮の各地には、角石町・建石町・石刎町など石切、石の加工に関わる地名が少なからず残っていますが、こうした歴史的背景があるのです。 

 このように重層的に様々な時代の遺構が連なっていますが、それぞれの時代に六甲の自然が生み出す様々な恩恵にあずかって、私たちの住む地域が豊かに潤っていることにもぜひ思いをはせてみてはいかがでしょう。

 

 

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